あまりに頭にきたので書く
本日3月31日にある衆議院法務委員会で議題に上る司法修習生に対する「給費制」について、極めて公平・公正を欠き、自分さえよければよい視野極小のエゴイスティックな議論をしている民進党議員がいるので、糾弾するために書く。あまり話題になっていないが、皆さんも注目してほしい。こいつは司法の敵だ。
弁護士になるには、ご存知のとおり、司法試験を受験し、合格したあとに、「司法修習」という研修期間(昔は2年、今は1年)を経て、もう一度研修所の卒業試験たる「二回試験(司法試験から数えて二回目だから)」に合格すれば、晴れて弁護士、検察官、裁判官、のどれかになれる。
(この最初の司法試験を受験するためにも、10数年前にできたロースクールを卒業しなければ受験資格を得られなかったのだが、予備試験という、大検みたいなもに受ければ受験資格を得られるようになった。)
今日ここで吠えたいのは、この司法修習生に対する「給料」の話である。
戦後、この研修期間には、「給費」として、一定額の給料が支払われていた。
しかし、2011年、民主党政権時代、この給費制が「貸与制」に変更された。
すなわち、司法試験に合格したのち、司法修習生になるときに、貸与制によって金を借りるか、金を借りないか、選ばされるのである。
つまり、300万円強の借金を背負って弁護士業を始めるかどうかの選択を強いられる。
では借りなければいいではないか。確かにそうだ。実家から通えばよい。貯金で暮らせばよい。アルバイトをすればよい。
しかし話はそんなに簡単ではない。司法修習は、全国的に配属され、自分の意とはまったく無関係に配属が決まる。引っ越し費用は?家賃は?生活費は?
しかも、司法修習生には、「修習専念義務」というのが法的に課されていて、兼業禁止である。つまり、アルバイトもできない。収入の道がない。これを読んでいるあなた、あなたが自分の縁もゆかりもない場所に配属され、実家は仕送りする体力もない、アルバイトもできない。それで司法修習できますか?本当の意味で専念しますか?
私はロースクール創設のときもその学費の高さをかなり問題視したが、これでは金持ちしか、あるいはたまたま環境的にフィットした人しかなれないではないか。
社会の階層の流動性を極めて鈍くする、階層間の参入障壁を上げてしまう、こんな政策には反対であった。
これが、司法修習でもう一回固定化する。
上記のような事情から、事実上、国からの貸与を受け入れなければ、修習ができない、事実上の貸与しか選択肢がない。
この世に存在する職業で、その職業になろうとしたら事実上300万円の借金を背負わされる職業があるか?
答えてほしい、あるか?
借金を背負わされたから闇稼業で働くのとは逆だぞ。
何かを始めたら金がかかる、というのとは違うぞ?国から借金をさせられるのだぞ?
この問題は、「弁護士を増やすべきか」「ロースクールをどうするのか」「司法試験の受験資格をどうするのか」等の問題とからめて論じられる。
しかし、極論をいえば、法曹という仕事に魅力がなくなったのである。2%しか受からなかった時代に5万人受けていた試験に、25%受かっても8千人しか受験しない。そもそもの志望者が激減している。これは、小手先の改革ではどうにもならない。
「ロースクールと受験資格の切り離し」という案もあるが、私はロースクール至上主義ではないため、予備試験含め受験の窓口は広げるべきと考えるが、しかし、切り離せば確実にロースクールは衰退する。司法試験塾が巨大マーケットを形成し、誰もがそこで答案作成の「パターン」を覚えて吐き出す「金太郎あめ答案」からの脱却をかかげ、これからの社会に対応すべく「考える力」を養うという理念で司法制度改革の目玉であったロースクール。ロースクールという社会資源は、残すなら活用すべきである。国費を投入したものを、ダメだったから放置する、というのではあまりに無責任である。
法曹資格というリスクが原因ともいわれる。しかし、私は、法曹は、弁護士法1条に「人権の擁護と社会正義の実現」という目的が謳われていることをいうまでもなく、そのリスクを超えてでもこの仕事にしかコミットできない価値がある、という理念型の職業だと思っている。そうであれば、リスクを負ってでも人間社会が希求する価値の実現者・行動者たりたい、という思い、ひいては、そのような価値へのコミット自体が衰退しているのではないか。同時に、国としても、社会自体、再チャレンジを認める、目指したい職業を安心して目指せる社会を構築する必要がある。
また、人数が膨れ上がっているから社会の受け入れ先がないというような需要との関係を持ち出すムキもあるが、そんなものは、我々一市民的自由としての社会保障の話とは違い、厳しい”法曹”市場における「競争」の話なのだから、「全弁護士に仕事があるべきだ」という前提自体が間違っている。無能な法曹はどんどん市場から退場したらよろしい。なぜ、民間のベンチャーや中小企業が裸で戦いがんばっているのに、弁護士のみ業界保護の話をするのか、より広く社会の隅々まで法律家が浸透する社会、ということよりも、目の前の食い扶持、という既得権益にしがみつく化石法曹たちは、とっとと市場から淘汰されるべきである。
私は、ロースクールの失敗も一部認めるし(これには、複数要因がある。ロースクールでの教育自体はとても良いものがある)、
そして、聞いてあきれるのが、このような議論に対して、衆議院法務委員会は「あなたのいうことはもっともである」という雰囲気で、反論もないそうだ。おそらく、この民進党議員が法務委員会でそこそのベテランだからだ、敵も味方も自分の頭で考えて中身を吟味して、批判的に検証することすらしない。聞いてあきれる。これぞ日本社会の悪しき側面の具現化。
つまり、"to do"(何をするか)より"to be"(なんであるか)が最優先される。どんな職業、身分、地位、性別、年齢、キャリアだろうが、そのひとのdoで判断するのがフェアネスであるが、日本社会は往々にして、「政治家だから」「弁護士だから」「医者だから」という、その人がなんであるか=to be によって批判的検証をパスしてしまう。
これが日本の”国権の最高機関”の法務委員会だぞ?これに無批判な連中が共謀罪を議論するのか?マスコミ批判もいいが、リーガルマインドとは、事実と論理だけに基づいて、常にそこにある多数派や通説に批判的吟味を加える精神のことのはずだ。日本の法務省にも大臣にも法務委員会にも、リーガルマインドもフェアネスもない。是非民進党含む野党から、このような不公平な議論を称揚する愚かな言説に批判的な声が上がることを期待している。
中世、いわゆる大学というものがこの社会に創設されたとき、学部は大体三つだった。
神学部(心の病を治す)
医学部(体の病を治す)
法学部(社会の病を治す)
この三つである。
我々市民の司法や法曹への無関心が、社会の病を進行させていないか?
今日このあとの法務委員会、注目だ。
「法曹養成」の問題は、とかく”内輪ネタ”になりやすい。しかし、違う。この問題は、「司法」という社会インフラ、ひいては、我々個人の自由の最後の砦を構成する人員の問題なのだ。最終的にその帰趨にもっとも影響を受けるのは、実は我々一個人なのである。是非自分事として、頭の片隅で全力で注目してほしい。